当時の清水市が日の出地区を再開発すると計画をし、そのひとつに大きな穀物倉庫を改造して営業する「ベルジュ35」というレストランが有った。
その建物も今は解体され「エスパルスドリームプラザ」となっている。
厳密に言うと観覧車あたりです。

他にも埋め立てた場所をレンガ風の回廊でぐるっと覆ったイベントなどを開催する「マリンパーク」や、イベント会場もある「マリンビル」など同じコンセプトでデザインされた建造物が出来ていった。
僕は「トミヤ」というコーヒーや食材を扱う問屋の紹介で『ベルジュ35』に勤める事になった。
全く下調べもしていなく新しくオープニングスタッフを募集している事で面接に行ったが、レストランが和洋食と中華。
結婚式や宴会が出来るバンケットが、3フロアーに分かれてつくられていた。
また当初は利用していなかったが、後に屋上はビアガーデンとして営業した。


「ベルジュ35」というネーミングは、テレビでも有名な「石坂浩二さん」が命名してくれた名前で、表には石坂浩二さん作の設樂焼のレリーフや、1階には石坂浩二さんが部屋全体の壁に絵を描いたVIPルームがあった。
和洋食は「荒狗路」、中華とバンケットはソーセージやハムで有名な「米久」が担当する事になっていて、僕は「荒狗路」が担当する和洋食レストランを受け持つことになった。


「荒狗路」とは当時沼津のグルメ街道で、客単価が1万円を超える和洋食レストランを営業していて、まさしくバブルが作り上げたというのがぴったり来るようなレストランだった。 何回も研修に行ったけど、首都圏の金持ちが伊豆などのゴルフ帰りに高級外車で乗り付け、4人くらいで「毛蟹の釜揚げ」「アワビのステーキ」「伊勢海老にヒラメや縞鯵の刺身の舟盛り」「各人に和牛サーロインステーキ200g」と贅をつくしていて、それでも広い店内が大賑わいだった。 まさしくバブル真っ只中のいい時代だった。
荒狗路は清水でも客単価8千円を目指すと豪語していたが、客席数も多く沼津と客層も違い、地元のお客さんも顧客として取り込まないといけないはずが、オープン当初はハレの日のレストランとして定着してしまい苦戦することになった。
そんな状態を上場企業である米久が許すはずもなく、しばらくして全てが米久一本の経営となり店名やメニュー内容も一新することになった。
僕を始め数人は次に向けてのアイデアもあり、米久の社長がサンフランシスコなどのフィッシャーマンズワーフを視察に行かせてくれたおかげでメニューは魅力あるものに出来上がっていった。
この頃から米久の社長と近しい関係性が出来、僕が師と崇める天才と仕事が出来る事になった。
その話は次回。。
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